九州大学総合研究博物館 第8代館長
国立大学に新たな組織をつくる時、施設や人員配置などで、監督省庁である文部科学省に対して予算を請求する概算要求という過程を経る。九州大学に博物館を造ることを決断したのは、杉岡洋一総長(任期:1995-2001)で、1996年には学内に設立準備委員会が編成され、先行展示として学部がもっている学術成果やコレクションなどを公開するイベントが開催されていた。当時、「開かれた大学」がキーワードであり、大学で研究された資料や標本が失われることに対する危機感もあって、大学博物館はこれらの機能を担うものとして構想されていた。
私が大学博物館設置に関わるようになったのは文部省(当時)へ概算要求を提出する最終段階の1999年前半のことだったと思う。熱帯農学研究センターの助教授の研究室に農学研究院長山﨑信行教授(当時)から突然電話がかかってきた。「緒方さん、ちょっと研究院長室に来てください」。何事かと思って伺うと、「九州大学に博物館を設置する構想がある。現在、概算要求の最終プロセスになっているが、文部省(当時)へ提出する文書作成を手伝ってくれないだろうか」というもの。そこから数カ月あまりライターとして博物館の設置に関わることとなった。
概算要求対応のタスクフォースは、設置準備委員会が作成した構想と資料に基づき、先行大学の事例、博物館の具体的な体制や研究内容などを集中的に論議、概算要求書として作成した。当時は、文科省とのやりとりはファックスや電話が主体である。大学本部へ届く文科省からの要求に応えるべく、徹夜で文書を修正、気がつくと雀の声が聞こえていたこともたびたびであった。有馬学先生、嶌洪先生、田中良之先生、青木義和先生、佐野弘好先生、望岡典隆先生など、異なる分野、世代の方々とご一緒できたことはまたとない機会であった。自然史博物館や歴史博物館の在り方について学んだことも多く、「博物館学」の存在もこのときはじめて認識した。最後には、文部省でのヒアリングにもかり出され、「僭越ながら…」と後方から意見したことも思い出される。
縁があって2017年の4月より館長として着任している。今、博物館は陣容も整い、研究・教育・開示と着実に業績を上げているが、ある意味では未だ完全に完成していない。建物の課題が残されているのだ。博物館という空間をどう造るのかは大きな宿題であり、残された在任の期間内に解決は難しいかもしれない。しかし、それは博物館設立にかかわった者の義務なのかもしれない。
九州大学名誉教授
ユニバーシティ・ミュージアム設置準備委員会のもとで、現在の総合研究博物館につながる概算要求書の作成に関わった者としては、その経験はあまり積極的に思い出したいものではない。概算要求が難航した主たる要因は、役所の担当者自身が大学博物館の必要性について確信を持っていなかったからではないかと思う。部門の名称を見ただけでは、そこでどのような資料が扱われるのか全く読み取れないような組織構成も、別に先進的なアイディアに基づいていたわけではない。見かけ上の目新しさを持ち出さなければ、査定官庁を説得できないと考えたのだろう。
だからここでは概算要求の苦労話を披瀝するのではなく、そんな時代が生んだ、笑うべくして笑えない遺産について述べておきたい。今に残る、官庁用語で言うところの「ポンチ絵」の語源についてである。Web辞書の類を見ると、風刺画、漫画という本来の意味とともに、概略図とか構想図という説明が何の留保もなしに並んでいて、私などは驚倒してしまう。本来の語義と懸け離れた使われ方は、日本語の柔軟性を示すものかもしれないが、なぜそうなったかは記憶しておいた方がいい。
大学改革(博物館の設置も含む)に伴う厖大な資料作成業務の発生は、インターネットがようやく普及しはじめ、ITがまだ目新しい用語であった時代に重なっている。そのころ、マイクロソフトのワードでようやく簡単な図が描けるようになった。図と言っても、丸や三角や四角の枠の中にキーワードを並べ、それを矢印でつなぐ程度のものである。そんな幼稚な図でも、役所の説明には便利だったらしい。というより、もっともらしく見えたのだろう。やがて概算要求の説明資料に図を付けることが、意味があろうと無かろうと必須の要求となっていく。
馬鹿馬鹿しさに呆れた誰かが、それをポンチ絵と呼んだのだろう。私たちは半ばふて腐れ気味に、「やっぱりポンチ絵付けろってさ」などと吐き捨てたものである。ポンチ絵は大学人の自虐表現に始まるのであり、そもそも大手を振って表通りを歩けるような言葉ではないのだ。中にはマンガという人もいた。語源的に全く正しい表現である。
「ポンチ絵を付けろって? あなた私に喧嘩を売ってるのかい!」これが正しい使い方だ。しかし言葉は生き物であり、いったん流通しはじめたらそれを押しとどめることはむずかしい。ならばせめて官庁用語の枠内にとどめてほしいものである。
九州大学名誉教授
大学院比較社会文化研究科の研究科長がユニバーシティ・ミュージアムの設立準備委員会の副委員長をつとめるというのは、1996年にこの委員会ができてからの申し送りであったらしい。副委員長は委員長(総長)に代わって委員を召集し、文部省にたいする概算要求などの設立にかかる準備作業を行うことになっていた。
志垣教授(故人)をへて有馬教授から1999年7月に私が引き継いだのは、研究科長としての仕事のほかにこの副委員長が含まれていた。引き継いだ時には有馬教授が副委員長の時代からすでに数回の文部省との打ち合わせなどが行われていたようではあったが、具体的な作業にはこれからという状態であった。私は理学研究科の青木教授、比較社会文化研究科の田中教授(故人)、農学研究科の緒方助教授(当時)、おなじく農学研究科の望岡典隆助手(当時)、それに本部事務局からの協力を得て、暑いなか概算要求の書類を作り始めた。
7月21日、最初の概算要求書をもって教官3名および事務方3名ばかりとともに文部省に向かった。この時は夕方の4時からヒアリングが始まり、終了したのは夜の11時30分となっている。夜食に何を食べたのかは覚えていない。対応したのは文部省施設課の課長補佐である。翌朝福岡に戻り、昼から本部の赤レンガの建物で前日のヒアリングを検討し、終わったのは午前3時30分。その翌朝また東京に飛び、午後3時から文部省での会議が午後8時30分に終わり、福岡へは翌日の9時50分東京発で戻っている。この日は土曜日であるが、学会関係の仕事があったので、昼から大学に行った。
このように毎週時には2回、福岡から東京へと飛び、帰っては要求書の検討をかさねる生活が9月まで続いた。東京に行く時はいつも学生の論文を持ち込んで機内で読んでいたし、この間も研究科の各種の会議、本部で行われる入試などの会議に参加したのは当然である。10月になってどうにか文部省から総務庁へ博物館建設の要求が上がり、翌年4月に九州大学総合研究博物館が誕生したのである。
九州大学名誉教授/九州大学総合研究博物館 初代館長
大学博物館設置にご尽力下さった嶌洪教授から博物館長就任の打診を受けた時は非常に驚いたが、杉岡洋一総長からの励ましとご支援のお約束を頂き、初代館長を拝命する決心をした。
2000年4月、総長の博物館への強い思い入れに支えられて博物館は始動した。開所式には姉妹大学のミシガン大学から自然史展示博物館の Amy Harris 館長にお越し頂いた。その機会に総長から、米国の大学博物館を視察し、その社会的役割や予算、人的構成、標本の収蔵環境や展示法、広報活動などに関する情報を収集してくるように要請された。 すぐに、館のスタッフを含めて4人で9箇所の博物館を訪問した。規模や予算では米国の大学博物館には及ばないものの、社会的役割を踏まえて、様々な機会に大学の教育・研究成果を社会に発信して行く広報活動の方法や内容には、参考にすべき点が多々あった。
評議員会で報告をした翌週には、総長から空港長への依頼により福岡空港第1ターミナルビルに無料の展示ブースを確保して頂いた。ここでは、九州地方に関連する研究成果を中心に展示し、数ヶ月毎に内容を更新した。また、病院長のご配慮で、附属病院の廊下にポスター展示が可能になった。さらに、各研究室に教育・研究成果の発表を募ったところ、農学部附属演習林が博物館での展示を企画して下さり、山から海への環境問題に関わる林学の役割と重要性を大いにアピールされた。もう一つ特筆すべきことは、農学部農学科の発案で、卒業論文の発表会をポスター形式により博物館で開催して下さったことである。卒業生の家族には大好評で大勢の親戚を伴って来館して下さり、我が子のプレゼンテーションに聞き入っておられた。この光景は強く印象に残っている。
その後の博物館スタッフのご努力で、博物館活動が活発に発展して来た事に心から敬意を表したい。今後も社会への積極的な発信を続けて欲しい。この上は1日でも早く博物館本館が完成することを祈るのみである。